社会が麻痺するベトナム最大の年中行事
ベトナムでは旧暦1月1日を正月として祝う。中国では旧正月のことを「春節」とよぶが、ベトナム語では「テト」とよばれている。「テト」は漢字の「節」がベトナム語風に発音されたものである。
テトはベトナム最大の年中行事である。一方、新暦の1月1日はいちおう休日とされているが、商店の大半は平常どおりの営業で、街の様子は普段と変わらない。
これにたいして、テトが近づくと、街も人も新年を迎える準備でそわそわしてくる。テト当日はほとんどの店が休業で、観光客は食事の場所をさがすのに苦労することもある。勤め人はテト前の1日とテトの3日間のあわせて4日間が休みとなる場合が多い。
旧暦にしたがうため、新暦の上でテトの日は毎年ずれてゆくが、おおむね1月後半から2月半ばまでの間にテトが来る。1997年の テトは2月7月、1998年は1月28日、1999年は2月16日、2000年は2月5日、2001年は1月24日である。2002年のテトは2月12日 となっている。
【北は桃花、南は梅花】
かつてはベトナムでも中国式に爆竹を鳴らして新年を祝っていたが、中国で爆竹が制限されたことにならい、ベトナムでも1995年 から爆竹が全面的に禁止された。その後は太鼓を鳴らしたり、行政側がおこなう打ち上げ花火で祝っているが、今なお爆竹に郷愁を覚える人がいる。2001年 のテトは、サイゴンでは午前0時にサイゴン川の上から15分間にわたって花火が打ち上げられた。
テトを祝う花は、ベトナム北部ではピンクの桃の花、南部では黄色い梅の花である。テトが近づくと各地で花市が開かれ、たいていの 家庭がこうした花を買って帰り、家に飾りつける。中部のフエでは、北部と南部の両方のしきたりが混ざり合っていて、桃と梅が混在しているが、梅花の方がや や人気があるようだ。
ただし、ベトナム南部でホアマイと称される黄色い花は、実際には梅ではない。梅はもともと厳しい寒さの残る早春の花であって、気 温30度のベトナム南部で梅の花が咲くはずもない。また梅の花は、白・薄紅・真紅が普通であるが、南部のホアマイはどれも鮮やかな黄色である。
南部の黄色いホアマイは、学名をオクナ・インテゲーリマ(Ochna integerrima)といい、梅とはまったく無関係の熱帯性の花である。実際に、梅はバラ科であるのにたいして、オクナ・インテゲーリマはオクナ科の植物であるから、梅とは親戚関係すらない。
【10×12=60?】
年号法としては、通常ベトナムでは西暦が用いられている。仏教界では仏暦が使用されることもある。仏暦は釈迦の生誕から数える暦法で、西暦2001年は仏暦2545年にあたる。
これ以外に、伝統的な年号として、日本と同類の干支(えと)があり、これが意外と広く使われている。日本ではせいぜい個人の生まれ年を動物名で表す程度だが、ベトナムでは実用的な年号法として残っている。
干支とは十干と十二支を組み合わせた中国式の年号法である。十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸であり、十二支とは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥である。
これらの組み合わせが、1年目は甲子、2年目は乙丑、3年目は丙寅のように、十干と十二支の両方が毎年ひとつずつズレてゆく。通 常は10と12のすべてが組合わされば、10×12で120通りの組み合わせができるが、干支は双方が同時にひとつずつズレるという特別な組み合わせなの で、全部で60通りの組合わせしかできない。
干支はこの60の組合せに、60年間にわたって1年ずつ名前を割り当てるという、はなはだ風変わりな年号法である。60歳になることを「還暦を迎える」と表現するのは、この干支の暦が一回りして、生まれたときと同じ干支に戻るからである。
干支暦では、2001年は辛巳(音読=しんし、訓読み=かのとみ)で、ベトナム語では「タンティ」(Tan Ty)と読まれる。2002年は壬午(音読=じんご、訓読み=みずのえうま)で、ベトナム語では「ニャムゴ」(Nham Ngo)となる。
【ね、うし、とら、ねこ....】
十二支には、「ね」「うし」「とら」と、12の動物が割り当てられており、日本でも今なお「ネズミ年」「ウシ年」のように親しまれている。
しかし、日本とベトナムでは動物の顔ぶれがいくつか異なっている。決定的に異なるのは、ウサギがネコであることだ。その他の小さな相違まで挙げれば、「ウシ→水牛」「ヒツジ→ヤギ」「イノシシ→ブタ」のように異なっている。あとは日本と同じである。
ちなみに2002年は日本ではウマ年であるが、ベトナムでもやはりウマ年というように、中国・朝鮮半島・台湾など、干支は各国で同調している。
【ご飯が1ヶ月日持ちする】
テトの2~3日間は炊事にわずらわされずにのんびり過ごすという意味もあり、日本のおせち料理と同様に、ベトナムでも伝統的な保存食が工夫されている。
代表的なものは「バインチュン」とよばれるモチ米料理である。中心に豚肉、その周りに緑豆粉ペースト、その外側にモチ米の層を作 り、最後にラーゾンとよばれる植物の葉で幾重にも包む。これを10時間ゆでると、最大で1ヶ月近く日持ちするモチ米の保存食バインチュンができる。
通常、炊いたご飯は1日でいたむが、バインチュンは、長時間ゆでることで完全殺菌されるうえ、包みかさねた葉のすきまにコメから 出るノリ状成分がゆきわたって、外気を完全遮断することで、驚くべき長期保存を可能にしている。いわば、ご飯の缶詰である。そのほかに、ラーゾンの葉には いくらか殺菌効果があるといわれる。
【ベトナムの「餅つき」】
かつて、バインチュンはテトの数日前に手作りされていた。バインチュンをゆでる大きな鍋を、家族や近所の人々で囲むのが、比較的最近までテトを準備するおきまりのの光景だった。
バインチュンゆでは、かつての日本における年末の餅つきに比することのできる心象風景だったのである。しかし最近では、日本の餅と同様に、バインチュンは店に行って買うものになっている。
バインチュンは包みの葉からモチ米に色移りするため、包みを開いたとき、モチ米の外側はあざやかな黄緑色をしている。包みを開い たバインチュンは、あらためて火を通さず、そのまま食べることができる。バインチュンは淡白な味なので、テトのあいだは白飯のかわりに食べることができ る。
【ムットはもはや楽しみならず】
バインチュンの形は、1辺10cmから15cm程度の扁平な直方体だが、南部にはボンレスハムの形をした棒状のバインチュンが多 い。この棒状のバインチュンは「バインテト」とよばれている。バインテトの「テト」は旧正月の「テト」とは、綴りも意味も違う言葉で、「裂く」という意味 である。
なぜ南部には独特のバインテトがあるのかという問題であるが、中国南部にある「棕子」というチマキがベトナムにもちこまれてバインテトになったという説がある。ベトナム南部には中国南部から多数の華人が移り住んだので、この人々がもちこんだのかもしれない。
伝統的なテトの菓子としては「ムット」があげられる。ココナツの果肉、ハスの実、その他さまざまな果物に砂糖をまぶして、日持ちするようにしたものである。
ムットが昔の子供にとってごちそうであったのは確かだが、今では甘すぎてこれを楽しみにする人は少ない。また近年ではさまざまな菓子類が普及してきたため、ムットは昔のように広く見られなくなっている。
【テトを有名にしたもの】
テトというベトナム語がベトナム以外でも知られるきっかけとなったのは1968年のテト攻勢であろう。ベトナム戦争中でもテトの際は戦闘が停止するのが慣例であった。1968年は1月30日がテトにあたっていた。
この年、南ベトナムの反政府勢力であった解放戦線は、1月31日の午前2時(すなわちテト初日が終わった深夜)に、首都サイゴン をはじめとする南ベトナムの各都市へ一斉攻撃をしかけた。この際、サイゴン中心街にあったアメリカ大使館の一部が数時間にわたって解放戦線に占領されたほ か、チョロン地区も戦闘により広く被災した。
戦闘が長引いたフエなどを例外として、解放戦線はすべての都市で数日以内に撃退され、軍事的にはテト攻勢は解放戦線側の失敗に終 わったが、この事件はアメリカの反戦気運を刺激して、ベトナム戦争の転換点となった。この攻勢が日本語で「テト攻勢」、英語でも"the Tet offensive" の名で報道され、ベトナム語のテトという言葉を多くの人が初めて耳にしたのである。
【旧暦って太陰暦のこと?】
テトは旧暦にもとづいているが、旧暦は必ずしも太陰暦のことではない。純粋な太陰暦だと、年々季節がずれてゆき、やがて夏の盛りに正月を迎えるというイスラム暦のような現象が発生する。
旧暦とはを月の動きをもとにした太陰暦を基本としつつ、季節がずれてゆかないように、太陽の動きをもとに修正を加えた太陰太陽暦(陰陽暦)である。そのため季節とのずれが年々生じる太陰暦とは異なって、いつも春が来る直前に旧正月を迎えることができる仕組みである。
かつて旧暦は、中国・ベトナム・朝鮮・日本などで広く使用されていたが、日本では1872年(明治5年)に西洋式の太陽暦(新暦)に切り替えられ、それが完全に定着して現在にいたっている。
新暦・旧暦のどちらにもとづいて正月を祝うかについては、日本が完全に新暦、中国・ベトナムはほぼ完全に旧暦にもとづいている。これにたいして、韓国では新暦・旧暦の比重が半々くらいで中途半端である。
ベトナムでも日常の生活は新暦にもとづいて進行するが、テトをはじめ各地の祭りなど、伝統行事の大半は旧暦にしたがっておこなわ れる。法事も旧暦にしたがうのが普通だが、さらには誕生日まで旧暦にしたがって祝う人々が少数派ながら存在する。新暦と旧暦がかなりの度合いで混在してい るのが、ベトナムの現状である。
テトはベトナム最大の年中行事である。一方、新暦の1月1日はいちおう休日とされているが、商店の大半は平常どおりの営業で、街の様子は普段と変わらない。
これにたいして、テトが近づくと、街も人も新年を迎える準備でそわそわしてくる。テト当日はほとんどの店が休業で、観光客は食事の場所をさがすのに苦労することもある。勤め人はテト前の1日とテトの3日間のあわせて4日間が休みとなる場合が多い。
旧暦にしたがうため、新暦の上でテトの日は毎年ずれてゆくが、おおむね1月後半から2月半ばまでの間にテトが来る。1997年の テトは2月7月、1998年は1月28日、1999年は2月16日、2000年は2月5日、2001年は1月24日である。2002年のテトは2月12日 となっている。
【北は桃花、南は梅花】
かつてはベトナムでも中国式に爆竹を鳴らして新年を祝っていたが、中国で爆竹が制限されたことにならい、ベトナムでも1995年 から爆竹が全面的に禁止された。その後は太鼓を鳴らしたり、行政側がおこなう打ち上げ花火で祝っているが、今なお爆竹に郷愁を覚える人がいる。2001年 のテトは、サイゴンでは午前0時にサイゴン川の上から15分間にわたって花火が打ち上げられた。
テトを祝う花は、ベトナム北部ではピンクの桃の花、南部では黄色い梅の花である。テトが近づくと各地で花市が開かれ、たいていの 家庭がこうした花を買って帰り、家に飾りつける。中部のフエでは、北部と南部の両方のしきたりが混ざり合っていて、桃と梅が混在しているが、梅花の方がや や人気があるようだ。
ただし、ベトナム南部でホアマイと称される黄色い花は、実際には梅ではない。梅はもともと厳しい寒さの残る早春の花であって、気 温30度のベトナム南部で梅の花が咲くはずもない。また梅の花は、白・薄紅・真紅が普通であるが、南部のホアマイはどれも鮮やかな黄色である。
南部の黄色いホアマイは、学名をオクナ・インテゲーリマ(Ochna integerrima)といい、梅とはまったく無関係の熱帯性の花である。実際に、梅はバラ科であるのにたいして、オクナ・インテゲーリマはオクナ科の植物であるから、梅とは親戚関係すらない。
【10×12=60?】
年号法としては、通常ベトナムでは西暦が用いられている。仏教界では仏暦が使用されることもある。仏暦は釈迦の生誕から数える暦法で、西暦2001年は仏暦2545年にあたる。
これ以外に、伝統的な年号として、日本と同類の干支(えと)があり、これが意外と広く使われている。日本ではせいぜい個人の生まれ年を動物名で表す程度だが、ベトナムでは実用的な年号法として残っている。
干支とは十干と十二支を組み合わせた中国式の年号法である。十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸であり、十二支とは、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥である。
これらの組み合わせが、1年目は甲子、2年目は乙丑、3年目は丙寅のように、十干と十二支の両方が毎年ひとつずつズレてゆく。通 常は10と12のすべてが組合わされば、10×12で120通りの組み合わせができるが、干支は双方が同時にひとつずつズレるという特別な組み合わせなの で、全部で60通りの組合わせしかできない。
干支はこの60の組合せに、60年間にわたって1年ずつ名前を割り当てるという、はなはだ風変わりな年号法である。60歳になることを「還暦を迎える」と表現するのは、この干支の暦が一回りして、生まれたときと同じ干支に戻るからである。
干支暦では、2001年は辛巳(音読=しんし、訓読み=かのとみ)で、ベトナム語では「タンティ」(Tan Ty)と読まれる。2002年は壬午(音読=じんご、訓読み=みずのえうま)で、ベトナム語では「ニャムゴ」(Nham Ngo)となる。
【ね、うし、とら、ねこ....】
十二支には、「ね」「うし」「とら」と、12の動物が割り当てられており、日本でも今なお「ネズミ年」「ウシ年」のように親しまれている。
しかし、日本とベトナムでは動物の顔ぶれがいくつか異なっている。決定的に異なるのは、ウサギがネコであることだ。その他の小さな相違まで挙げれば、「ウシ→水牛」「ヒツジ→ヤギ」「イノシシ→ブタ」のように異なっている。あとは日本と同じである。
ちなみに2002年は日本ではウマ年であるが、ベトナムでもやはりウマ年というように、中国・朝鮮半島・台湾など、干支は各国で同調している。
【ご飯が1ヶ月日持ちする】
テトの2~3日間は炊事にわずらわされずにのんびり過ごすという意味もあり、日本のおせち料理と同様に、ベトナムでも伝統的な保存食が工夫されている。
代表的なものは「バインチュン」とよばれるモチ米料理である。中心に豚肉、その周りに緑豆粉ペースト、その外側にモチ米の層を作 り、最後にラーゾンとよばれる植物の葉で幾重にも包む。これを10時間ゆでると、最大で1ヶ月近く日持ちするモチ米の保存食バインチュンができる。
通常、炊いたご飯は1日でいたむが、バインチュンは、長時間ゆでることで完全殺菌されるうえ、包みかさねた葉のすきまにコメから 出るノリ状成分がゆきわたって、外気を完全遮断することで、驚くべき長期保存を可能にしている。いわば、ご飯の缶詰である。そのほかに、ラーゾンの葉には いくらか殺菌効果があるといわれる。
【ベトナムの「餅つき」】
かつて、バインチュンはテトの数日前に手作りされていた。バインチュンをゆでる大きな鍋を、家族や近所の人々で囲むのが、比較的最近までテトを準備するおきまりのの光景だった。
バインチュンゆでは、かつての日本における年末の餅つきに比することのできる心象風景だったのである。しかし最近では、日本の餅と同様に、バインチュンは店に行って買うものになっている。
バインチュンは包みの葉からモチ米に色移りするため、包みを開いたとき、モチ米の外側はあざやかな黄緑色をしている。包みを開い たバインチュンは、あらためて火を通さず、そのまま食べることができる。バインチュンは淡白な味なので、テトのあいだは白飯のかわりに食べることができ る。
【ムットはもはや楽しみならず】
バインチュンの形は、1辺10cmから15cm程度の扁平な直方体だが、南部にはボンレスハムの形をした棒状のバインチュンが多 い。この棒状のバインチュンは「バインテト」とよばれている。バインテトの「テト」は旧正月の「テト」とは、綴りも意味も違う言葉で、「裂く」という意味 である。
なぜ南部には独特のバインテトがあるのかという問題であるが、中国南部にある「棕子」というチマキがベトナムにもちこまれてバインテトになったという説がある。ベトナム南部には中国南部から多数の華人が移り住んだので、この人々がもちこんだのかもしれない。
伝統的なテトの菓子としては「ムット」があげられる。ココナツの果肉、ハスの実、その他さまざまな果物に砂糖をまぶして、日持ちするようにしたものである。
ムットが昔の子供にとってごちそうであったのは確かだが、今では甘すぎてこれを楽しみにする人は少ない。また近年ではさまざまな菓子類が普及してきたため、ムットは昔のように広く見られなくなっている。
【テトを有名にしたもの】
テトというベトナム語がベトナム以外でも知られるきっかけとなったのは1968年のテト攻勢であろう。ベトナム戦争中でもテトの際は戦闘が停止するのが慣例であった。1968年は1月30日がテトにあたっていた。
この年、南ベトナムの反政府勢力であった解放戦線は、1月31日の午前2時(すなわちテト初日が終わった深夜)に、首都サイゴン をはじめとする南ベトナムの各都市へ一斉攻撃をしかけた。この際、サイゴン中心街にあったアメリカ大使館の一部が数時間にわたって解放戦線に占領されたほ か、チョロン地区も戦闘により広く被災した。
戦闘が長引いたフエなどを例外として、解放戦線はすべての都市で数日以内に撃退され、軍事的にはテト攻勢は解放戦線側の失敗に終 わったが、この事件はアメリカの反戦気運を刺激して、ベトナム戦争の転換点となった。この攻勢が日本語で「テト攻勢」、英語でも"the Tet offensive" の名で報道され、ベトナム語のテトという言葉を多くの人が初めて耳にしたのである。
【旧暦って太陰暦のこと?】
テトは旧暦にもとづいているが、旧暦は必ずしも太陰暦のことではない。純粋な太陰暦だと、年々季節がずれてゆき、やがて夏の盛りに正月を迎えるというイスラム暦のような現象が発生する。
旧暦とはを月の動きをもとにした太陰暦を基本としつつ、季節がずれてゆかないように、太陽の動きをもとに修正を加えた太陰太陽暦(陰陽暦)である。そのため季節とのずれが年々生じる太陰暦とは異なって、いつも春が来る直前に旧正月を迎えることができる仕組みである。
かつて旧暦は、中国・ベトナム・朝鮮・日本などで広く使用されていたが、日本では1872年(明治5年)に西洋式の太陽暦(新暦)に切り替えられ、それが完全に定着して現在にいたっている。
新暦・旧暦のどちらにもとづいて正月を祝うかについては、日本が完全に新暦、中国・ベトナムはほぼ完全に旧暦にもとづいている。これにたいして、韓国では新暦・旧暦の比重が半々くらいで中途半端である。
ベトナムでも日常の生活は新暦にもとづいて進行するが、テトをはじめ各地の祭りなど、伝統行事の大半は旧暦にしたがっておこなわ れる。法事も旧暦にしたがうのが普通だが、さらには誕生日まで旧暦にしたがって祝う人々が少数派ながら存在する。新暦と旧暦がかなりの度合いで混在してい るのが、ベトナムの現状である。
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